当て字の功罪
2006.03.01 |Category … 雑記
「やはり→矢張り」は誤字ではない。うん、これは了解。単純に私の認識不足でした。申し訳ない。勉強不足ですね。
しかし、当て字は難しいです。
当て字には2種類あって、「意味を持っている当て字」と「意味を持たない当て字」があります。
今回の「当然」というような意味を持っている「やはり」に対して「矢張り」という当て字を使うのは、意味はまったく持たない後者の意味となりますね。逆に前者には「彷徨う」とか「不味い」とかがあったと思います。見ての通り、「矢を張る」という意味からは今回の意味は導き出せない、つまりは漢字の持つ意味が邪魔になってしまいます。
日本語、という観点では使う事を躊躇う当て字も割と多いです。物書きとして、特に厳密な基準が(新聞のように)あるわけじゃないので個人的基準になっちゃうのですが、難しいなーと常々思っております。自分じゃ何気なく使ってる言葉、一般的だと思ってる言葉が、見てくれてる人にちゃんと伝わってるのだろうか…とか。
「正しいor正しくない」も大事だと思うけれど、私はそれ以上に「伝わるor伝わらない」をこのblogでは重要視していきたいな。最善は「正しい事を伝える」なので、機会があればこのように記事を作ったりしてます。
以下は個人的見解。
伝える事が目的なので使う事がNGとかは思ってないのですが、当て字は本来は正当性はないと思ってます。当て字を使わずに伝えられる言葉が一般的であれば、なおさらかな。
ただこれに例外があって、当て字になっているものが一般的な名称として認知され、また本来の用語が廃れて完全に当て字が正当化されてしまっているものもあります。
「卑弥呼(→日の御子:ひのみこ)」や「耶馬台国(→大和国:やまとこく)」なんかは(一部諸説があるので完璧ではないですが)歴史として定着してしまっている部分も含めて、当て字でありながら正当性を持っている言葉だと思います。
日本語って難しいね。難しいからこそ楽しいし好きなんだけどね。
●Thanks Comments
マジレスワショーイヽ(゚∀゚)ノ
今回の矢張りに関してはほんとに使ってる人自体稀なので、いつもの癖でそのまま変換しちゃった私も云々・・・
でも、漢字に出来るものは何でも感じにしたいって言うのが私の心情なので、これから先も「?」となる当て字が出てくるかも知れませんがご容赦くだされ
でだ・・・・「態と」は「熊」の間違いじゃなくて「わざと」を漢字にしたもので、これは当て字でもなんでもないよ!|ω・)
わしょーい。
ちなみに拍手コメントだと、何送ったかはっきりと覚えてない(記録がない)ので、記憶にない場合があるのであしからず!
塾の講師が以前言ってたよ、テストにでる論文等は駄文だ、と。
わかりにくいから問題としてテストにでるわけで、わかりにくい文とはつまり駄文だと。
読む人多くに理解させる文章こそが良い文章らしい。
なわけで正しいとかより、伝えることを優先するってのは書き手として素晴らしいってことだと思うよ!
日本語がそもそも中国由来の漢字で表記する部分があるから、当て字…というか借字を用いなきゃいけないのは仕方なかったことで。
つい50数年前まで外来語を漢字で表記しまくってたわけだし、借字という漢字の本来の意義に関係なく音で表現する風習はある程度根強い部分はあるかな。
今も「米」「露」って書いただけでどこの国を表現してるかわかる人多いし、借字も日本語の文化で正統的なものだと思うよ。
どうでもいいけど、所謂、とか書かれると一瞬絶対になにこれ?って毎回迷う俺。
そしてこれを使って表記する人を(馬鹿な人だな)となぜか思ってしまう。
理由があるわけじゃなく、なぜかそう思っちゃう(笑)
「所謂」は確かに一瞬読めないですよねー。
とりあえず、ぐぐってみたりしたのですけど、普通に文章に使われすぎててちゃんとした意味やら語源やらは調べられませんでした(検索の仕方が上手くなかったのかもですが)。
ちなみにわたしはIMEの変換で出るから使ってるだけですね(爆)
あとは、平仮名で「いわゆる」と書くのと、あえて「所謂」と表記するのとでは文章自体の堅さ(?)みたいなのも変わるので、真面目な時は漢字かもかも、とか。
つまりは、当て字や読みにくい漢字を使うことも表現方法の一つではないのかなー、と。